きょうは、くつぬぎタケ子さんとのお別れ(告別式)です。
大阪市会議員を長くつとめたあと、1973年の参院大阪地方区補欠選挙で1議席を争い、自民党候補を打ち破って当選。83年に苦杯をなめますが、86年の選挙で「岩をもこじ開ける」大奮闘で見事返り咲きました。その豪放かつ繊細なお人柄は、人々から広く愛されました。まちがいなく大阪を代表する政治家のひとりでした。
くつぬぎさんは、若輩者の私にも、たくさんのことを教えてくださいました。私が93年に参院大阪選挙区候補になったときも、95年に参院議員になってからも、そして01年にくつぬぎさんゆかりの西淀川区を含む衆院大阪5区候補になってからも、要所要所で貴重なアドバイスをいただきました。
議会活動と国民の要求、運動との関係もそのひとつです。くつぬぎさんはよく、「我々は地べたをほうて(歩いて)、大衆の要求をつかみ、大衆に学ばないかん」とおっしゃっていました。大阪市会にはじめて出たとき、西淀川区の、ある地域の住環境問題で相談を受けたそうです。現地を訪ねて住民の声を聞き、「私がいきなり議会で質問しても動かん。皆さんが運動を起こしてください」と署名運動を提起すると、あっという間に全世帯から署名が集められ驚いたといいます。それを背景に議会で質問して問題は見事解決。以来、その地域の人々は熱心な共産党支持者になってくれたそうです。
参院議員になってからもくつぬぎさんのこのスタイルは貫かれました。「サービス残業」という名の職場の犯罪行為を国会ではじめて追及し、住友など大企業での男女差別問題を繰り返しとりあげたくつぬぎさん。そこには常に「大衆に学び、大衆とともにたたかう」姿勢がありました。だからこそ、その先駆的な仕事は、今日、行政や司法を動かし、労働者・国民の暮らしと権利を守る大きな力となっているのだと思います。
強く大きな党を建設することへの執念も並々ならぬものがありました。くつぬぎさんの長い政治活動で、ただ一度の敗北が83年の選挙でした。以来「岩をもこじ開けて」という、くつぬぎさんの議席奪還への執念の言葉が、大阪の党組織の共通の合言葉となります。
当時、大阪のある地区委員会で活動していた山口勝利党大阪府委員長は「あのとき(83年から86年の3年間)は、毎月毎月連続して党勢を増勢させていた」といいます。くつぬぎさんの「岩をもこじ開けて」という言葉は、単なる候補者の決意の文句ではなく、党勢拡大(党員や「しんぶん赤旗」読者を増やすこと)という最も困難な分野で前進を切り拓く気概を、全党にみなぎらせることにこそ真髄があったのです。その結果、わが党にとって決して”風向き”のよい情勢ではなかった86年の衆参同時選挙で、くつぬぎさんは参院大阪選挙区の議席を奪還したのでした。ここには、私たちが現局面の活動で生かすべき大切な教訓があると思います。
晩年、ご自宅を訪ねると、必ず「ようがんばってるなあ」と激励してくれ、自身の貴重な経験をお話してくれるなど、いつも私を奮い立たせてくれたくつぬぎさん。まだまだ長生きをされ、そのたぐいまれなる政治的嗅覚にもとづくご提言をいただきたかった…。しかし、それはもはやかないません。いただいたご恩に対し、私自身がさらに成長、前進することで報いるしかありません。深い感謝と決意を込めて、くつぬぎさんと最後のお別れをしました。