2006年03月12日
11、12日と田舎(香川県善通寺市)に法事で帰ってきました。妻方の祖父の17回忌だったのですが、私たち夫婦は同郷なので、何年ぶりかに双方の実家に顔を出すこともでき、なにかほっとした気分になりました。甥っ子、姪っ子たちの見違えるような成長ぶりには、忙しさにかまけてご無沙汰していた時間の長さを感じつつも、うれしさがじんわりこみ上げてくるのでした。
大阪からは車で帰りました。高槻に住む伯父夫婦も一緒でした。瀬戸大橋を渡るころ、伯父がポツリとつぶやきました。「すみませんが私の実家の墓参りに付き合ってくれませんか」。いいですよと私。さっそく花を手に入れ、伯父の記憶を手がかりにお墓のある場所へ。 「これが兄の墓です」。伯父の前に立つ墓には、「海軍上等兵曹 勲七等功六級 田邊芳一之墓」と刻まれていました。思わず心の中で「あ」と声を上げました。昨年の総選挙のときにはじめて聞いた、潜水艦乗りだった伯父の兄のお墓です。 墓の側面には、「田邊繁利長男芳一 大東亜戦争に参加 昭和十九年七月二十二日マレー沖海戦に於いて戦死 行年二十二才」とありました。当時の日本軍の潜水艦「イ161号」の乗組員として、百数十人の仲間とともに南方の海に潜水艦ごと沈んだまま、いまだに骨ひとつもどらない、と伯父から聞いていましたが、これがその兄のお墓なんだと、厳粛な気持ちになりました。
伯父は兄との思い出話をひとつ紹介してくれました。兄はとても頭のよい人だったそうで、小学校の高学年のころから夜も電灯をつけて勉強していたのだそうです。ある日、やんちゃだった伯父は、兄に八つ当たり。「そんなに遅くまで勉強されたら明るくて眠れん」と兄の持つペンを取り上げ、ペン先を兄の左腕に突き刺したんだそうです。 それから時が経ち、海軍に志願し潜水艦乗りになった兄が、「潜水艦がドックに入ったから」と突然、当時広島の呉に住んでいた伯父を訪ねて来ました。そのとき兄は、左腕の衣服をまくりあげ、「強、この傷を憶えているか?」と笑いながら聞いたそうです。「はい、憶えています。あの時はすまんかったです」と伯父は答えました。 「まさか、その2ヵ月後に兄が亡くなるとは思わなんだです…」。兄と入れ替わるようにして海軍に入った伯父は、幸い無事に終戦を迎えることができました。 「ああよかった。久しぶりに兄の墓にお参りすることができました」と伯父。しかし、その安堵の表情とは違い、60年以上たったいまでも、伯父の頭には、22歳で逝った兄の姿が時折よみがえり、「なぜ兄は死ななければならなかったのか…」と、思いつめたような状態になるといいます。 「いまの自民党の政治家たちが、実際の戦争のことを知らないまま、憲法を変えようとしていることは許せんのです」。伯父の言葉には、戦争で大切な肉親を失った者の重みがありました。
写真:私の実家のお墓にもお参り。3男大輔と。
写真:讃岐うどん通にはたまらない善通寺の「山下うどん」の「釜揚げ」。コシが違います。