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海老名香葉子さんの講演に泣きました

2005年12月10日

 海老名香葉子さんをご存知でしょうか?そうです。エッセイストであり、故・林家三平師匠の夫人、9代目・林家正蔵師匠(林家こぶ平さん)の母でもある、あの海老名香葉子さんです。

 はじめてお話を聴きました(9日、中之島中央公会堂で大阪革新懇・全国革新懇主催で行われた「講演と音楽の夕べ」にて)。海老名香葉子さん自身の戦争体験談です。泣きました。「310万人」「2000万人」という日本が起こした戦争による犠牲者の「数」は、その「1人」「1人」が家族のある「命」であり、「人生」であり、「夢」であったんだと、深く考えさせてくれました。

 現在72歳の海老名さんは、東京の下町・本所で生まれ育ちました。釣竿師の父と母、祖父母、2人の兄や「こうちゃん」と呼んでいた歳の離れた弟と一緒に暮らしていました。

 長屋の両隣も布団屋、仕立て屋と職人のお家。海老名さんのおばあちゃんは夕飯のおかずを作ったら必ず「かよちゃんお願いね」とお隣に届けさせたそうです。「ありがとね、うちはまだなんにも作ってないから助かるよ」と大きな声でおとなりのおばさん。そうやってご近所で助け合って暮らしていました。

 弟が生まれたときはうれしかったそうです。こうちゃんが笑うだけで家のなかがぱあっと明るくなる。かわいいなあ、海老名さんはおねえちゃんの気持ちになったそうです。「亀の子」と呼ばれていたおんぶ紐でこうちゃんをおんぶして近所の子ども達と遊びました。

 おじいちゃんが亡くなったとき、当時すでに配給制になっていたお砂糖を集めて葬式饅頭をつくりご近所に配りました。子どもたちは大喜びしたそうです。「かよちゃんのおじいちゃんが死んでくれたおかげで甘いお饅頭が食べられた」って。

 東京に戦火が迫るなか、海老名さんは学童疎開でおじさんの住む静岡県沼津に行くことになります。お別れの前、お母さんは海老名さんに言います。「かよちゃん、あんたは明るくて、みんなに好かれる子だから、きっと友達もたくさんできるよ。がんばるんだよ」。こうちゃんにお別れを言うと、「ねえね、ねえね」とおもちゃ箱からメンコを一枚くれたそうです。

 終戦の年の3月10日夕暮、疎開先の沼津からも東京の空が真っ赤になっているのが見えました。東京大空襲です。海老名さんは、赤い空を見ながら家族のことを案じ祈ります。「どうか神様、家族を守ってください。もう髪の毛をなめる悪い癖は直します。勉強も一所懸命します。だから助けてください…」

 しかし海老名さんの願いは届きませんでした。次兄以外の家族は炎に囲まれてみんな亡くなります。数日後、突然訪ねてきた次兄からそのことを聞き、二人で抱き合って泣きました。次兄は、おじの家に二人も世話になるのは申し訳ないと、当てのない東京に戻ります。そこから、戦災孤児となった海老名さんのつらい時代が始まるのです。

 おじさん、おばさん宅にも居ることができなくなり、遠い親戚、知人の家を3日、10日と転々とする日々。きょうはどこで寝ようか、明日は何を食べようかと、毎日毎日そればかり心配して暮らしていました。学校に行きたいと、住み込みの子守をしますが、夜明け前から3人の幼子の面倒を見るだけで精一杯。やはり学校に行くことはできませんでした。

 「ああ、なんでこんなことになっちゃったんだろう…」。悲しくて、寂しくて、生きていくのが嫌になったとき、海老名さんの心の中にはお母さんの声が聞こえたそうです。「かよちゃん、がんばるんだよ」。そして海老名さんは空に向かって三度叫んだそうです。「おとーちゃーん、おとーちゃーん、おとーちゃーん」。すると心が落ち着いて、よしがんばらなくっちゃと思えたんだそうです。

 そんな焼け野が原となった東京で必死で生きていた少女の海老名さんを、先代の三遊亭金馬師匠が「お姉ちゃん、いい子だね。うちの子におなりよ」と引き取って育ててくれることに。その夜、あたたかいお布団に入った海老名さんは、「やっと安心して寝られる。これで生きていける」と思ったそうです。

 あれから60年…。現在、海老名さんには子どもが4人、孫が5人いらっしゃるそうです。「生きててよかった。命を大事にしてよかった」。海老名さんはしみじみとおっしゃいました。そしてこう続けられました。「きょうは悲しい話をしてしまいました。私は落語家の妻ですから、本当は面白い話が得意なの。”パンツ破れたんだって?マタかい?”みたいな(笑)。でも、私みたいな子どもを二度とつくらないでほしいという思いできょうは話しました」
 
 お話を聴きながら、先日七五三参りに連れて行った3男・大輔のことが頭に浮かんできました。子どもたちのためには、どんなことがあっても”戦争しない”と決めた日本国憲法を守り抜かねばなりません。海老名さんがおっしゃったように、みんなで力をあわせればきっと守れると思います。そのときこそ、海老名さんお得意の”面白い話”をタップリ聞かせてもらって、お腹がよじれるくらい笑いたいものですね。心にしみるお話をありがとうございました。 

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