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熊野路でふるさとを愛する人々との交流

2005年06月21日

 和歌山県へ。合併で新田辺市となった中辺路町で、熊野古道に関わる市民運動の代表の方々と懇談しました。ふるさとの歴史と自然を愛する人々の地道な営みに、大変感銘を受けました。

photo 熊野古道の歴史を研究し、訪れる人たちを「語り部」として案内しているのが「漂探古道(ひょうたんこどう)」の皆さん。代表の木下幸文さんは、熊野古道は、平安時代の貴族たちが熊野三山(本宮大社、速玉大社、那智大社)を詣でるための道だったこと、後白河上皇は34回も参詣し、1回800人のお供と150頭の馬の大部隊となったことなどを教えてくれました。しかし、なぜ上皇たちが毎年熊野詣を繰り返したのかは、いまだに謎だそうです。当時、院政をしいていた上皇が、その経済力、軍事力を維持するために、豊かな森林資源や銅山、熊野水軍のあった熊野地方との交流を重視したのではないか、との説もあるそうですが定かではありません。(写真は、滝尻王子で木下さん、衆院3区の上田さんと)

 木下さんは、熊野古道の石畳は、雨が多いこの地方で道を守るためには不可欠で、おそらく大勢の民が強制的に動員されて造られたものだろうといいます。「石畳にはそうした人々の血と涙が染み付いている。それを感じながら踏みしめてほしい」とも。なるほど、こんな話を聞かせてもらいながら古道を歩いたら、伝わってくるものもより豊かになるでしょう。

photo 私が「千年におよぶ古道の歴史を探訪されている皆さんにとって、わずか数十年前に日本が起こした戦争の歴史をゆがめる動きはどう映るでしょうか?」とたずねると、木下さんは「そういう人たちは、もっともっとこの道をお参りしたらええと思います」とのお答え。大戦中、レイテ沖海戦に参加し九死に一生を得、戦後、ふるさとの歴史研究に取り組んでいる木下さんの言葉には重みがありました。ありがとうございました。(写真は、八上王子にあった西行の歌碑)

 熊野古道の自然の研究に取り組んでいる市民グループ代表のTさんにもお話をうかがいました。Tさんたちのいちばんの心配は、古道の周りの人工林です。現在、古道を歩く人が目にする風景の7、8割は人工林。変化がなく楽しみが少ないといいます。「本来の熊野の森、自然の森を復活させよう」とTさんたちは活動しています。

 和歌山県が、古道の両側を幅50bずつ買い取って自然林に戻す「バッファゾーン計画」もあったのですが、諸々の理由で進んでいません。Tさんたちはボランティアで、公有林のスギやヒノキを「まきがらし」(幹の一定部分の皮をはいで木を自然に枯らせる手法)によってカシの木に換える試みもしています。自然林に変わったら、山の保水力や土壌生物がどう変わるか、大学の研究者も注目しているそうです。

 子どもの頃から親しんだ熊野の森や生き物を「こんなにも奥が深いとは思いませんでした」と語るTさんの目はとても優しく、少年のようでした。

 木下さんのグループは現在50人、一人も減らないそうです。Tさんのグループはなんと350人、熊野だけでなく大阪、奈良、東京からの参加者もあるそうです。どちらも、子どもの頃からそこに住む人々が中心となって、専門家や、関心のある市民といっしょに勉強し実践している点が共通しています。こうした地域の市民のネットワークこそ、ふるさとの歴史を掘り起こし、自然を守る大きな力となることを教えられました。

 きょうは、他に山の随筆家、飲食店の経営者、お寺のご住職などたくさんの方々と懇談できました。ふるさとを愛し、平和を愛する皆さんのお気持ちで、私の心もあったかくなった熊野行でした。衆院和歌山3区の上田稔予定候補、党和歌山南地区委員会の正垣泰比古副委員長が終日同行してくれました。お世話になりました。

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