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ベトナム市民代表団との楽しく有意義なひととき

2004年11月25日

 11月21日(日)午後、作家の小田実さんから招待を受け、ベトナム市民訪日団を歓迎する集会に参加しました。

 小田実さんが、鶴見俊輔さんや亡くなった開高健さんらとともに、ベトナム戦争に反対する「べ平連」(「ベトナムに平和を!」市民連合)の運動にとりくんだことはよく知られています。米軍の脱走兵を救出する活動などを行いました。

 その小田さんに、2年前、ホーチミン市の戦争証跡博物館から、「日本の市民のベトナム反戦運動の資料を展示したい」との要請があったことがきっかけとなり、日本とベトナムの「反戦平和」の市民の交流が始まりました(「毎日新聞」東京版に小田さんが週1回執筆している「西雷東騒」10月26日付に詳しいいきさつが書かれています)。

 今回で4度目となる市民交流は、始めて「ホームステイ」方式で行われることとなり、「里親」となる大阪の市民などが「歓迎集会」を開催する運びとなりました。

photo 会場の港区民センターには、ベトナム市民訪日団の17人のメンバーが。リストを見ると、団長のボ・アン・ツアンさん(77)は、ホーチミン市平和委員会会長で元国連大使ですが、他の方は、学生、会社員、公務員、医師、旅行ガイド、テーラー、定年生活者など職業はさまざま。まさに「市民訪日団」です。(写真は右から、小田実氏、ボ団長、通訳のグェンさん、私)

 集会は、ベトナム戦争当時の日本の市民の反戦運動の記録映画の上映の後、小田さんが歓迎のあいさつ。「市民同士がホームステイでお互いの冷蔵庫の中身を知ることが平和連帯の握手を強いものにする」との言葉が印象的でした。

 続いて、ベトナム側からボ団長がお礼のあいさつ。「私たちベトナムと日本の市民は反米救国で一枚岩でした。いまベトナムは平和になりました。しかしベトナム戦争の傷跡は残っています。とくに(米軍が大量散布した)枯葉剤の問題が残っています。引き続き支援をお願いします」。短いあいさつでしたが、お話し振りに元国連大使の風格を感じました。ボ団長が、あいさつの冒頭、小田さんとともに「日本共産党の元参議院議員のヨシキさんにも感謝します」と言われたのには恐縮でした。

 通訳を介するので進行には2倍の時間がかかります。あっという間に予定の3時間が過ぎ、「続きは夕食会で」となりました。

 近くの中国料理店に場所を移して交流を継続。乾杯の前にあいさつをを求められ、私は次のように話しました。

 「私の名前は山下よしきです。3年前まで日本共産党の参議院議員でした。そのとき、阪神大震災の被災者を支援する法律をつくる運動をつうじて小田実さんと友人になりました。それで今日ここに来ています。

 私は1960年生まれです。ベトナム戦争が始まったころは、小学校低学年でした。いまでもよく覚えているのですが、小学校へ通う道で私たちはみんなで歌を歌っていました。その歌はこういう歌です。

 ♪ベトナムせんそう はんたい!

 そのころの私はもちろん共産党員ではありませんでした。しかし、小学校低学年の私が、こんな歌を口ずさむほど、ベトナム戦争が大義のない侵略戦争であり、そのことを当時の多くの日本人がよく理解していたということだと思います。

 そのときの日本の市民運動のリーダーの一人が小田実さんでした。そしてそのベトナムでアメリカの侵略とたたかっていたのが皆様方です。心より敬意を表するとともに、お会いできたことを光栄に思います。

 日本とベトナムの人民の交流のいっそうの発展と、戦争のない世界のために、乾杯!」

 席に戻るとボ団長から握手を求められました。小田さんは「そうか、あのころまだ小学生か、若いなあ」と。ボ団長は70年代にキューバ大使もされていたとのこと。私も一昨年キューバを訪ねる機会があったので、そのときの様子などをお伝えしました。

 お酒が入ると、打ち解けた雰囲気となるのはどこの国でもおなじです。私は、テーブルを回りながらベトナム、日本、双方の参加者と交流を楽しみました。

photo テーブルを移動する私を呼びとめるベトナムの女性がありました。英語で話しかけてきます。「あなたいい男だわ。一緒に写真とってくれますか?」「もちろん、いいですとも」でパチリ。「ありがとう。ところで私は服をつくる仕事をしているの。もしホーチミン市に来ることがあったら、私に連絡ちょうだい。ターミナルからすぐ近くよ。あなたにピッタリの服をつくってあげるわ」と名刺をいただきました。「ありがとう。楽しみにしています」。さすがは市民交流。フランクでいいですねえ。

 別のテーブルで、ある50歳のベトナムの男性を紹介されました。「この方のお父さんは日本人です。第二次世界大戦では、日本がベトナムに攻め込みました。戦争が終わったときに、彼のお父さんは日本に帰ったら戦犯になるかもしれないとベトナムに残りました。そしてベトナムの女性と結婚したが、1955年、彼がお母さんのお腹にいるときに、彼のお父さんは日本へ戻ったのです。だから彼はお父さんの顔も何も知らない」。私は男性と手を握りながらも、かける言葉がありませんでした。男性は昨日、お父さんに会ったそうです。「会えてよかったですね」に「はい、よかったです。アリガトゴザイマス」。本当によかった。

photo かつて日本が起こした戦争のために、つらい人生を歩まざるを得なかった人々が、アジアにはまだまだたくさんいる。そのことを忘れた日本にアジアで生きる道はないと、つくづく思いました。

 楽しく、そしてとても有意義なひとときでした。ありがとうございました。

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