能登地方2カ所で演説会 面白かったおじさんとのやりとり
2010年05月22日
いや〜面白かった。石川県能登地方で午前、午後2カ所の演説会。1カ所目は千里浜(ちりはま)海岸で有名な羽咋(はくい)市で。2カ所目は反戦川柳作家・鶴彬(つるあきら)生誕の地・かほく市で。パネルも使ってそれぞれ50分、1時間の熱演。
羽咋市の会場では、はじめから「そうそう」、「ほ〜う」、パチパチ(拍手)など合いの手を入れてくれるおじさんが。演説後握手すると、「わしは自民党やったけど、聞けば聞くほど共産党に惚れ込んだ。日本を背負って立ってくれよ」とのことでした。了解です。
他の参加者の方からも、「いい話を聞かせてもらいました」「よかった〜」「こんな話し方する人はいままでで始めて」など熱い感想をいただきました。
かほく市の会場では、演説終了後、「せっかくですから質問のある方はどうぞ」と司会者が予定外のふり。すると、おじさんが立ち上がりマイクを握りました。以下、おじさんと私とのやりとりです。
お:話を聞いたらええことばっかり言うとる。政権についたら本当にできるのか?
山:党の歴史を見てください。小林多喜二のように命がけで反戦平和を貫いた先輩を持つ党です。政権についたとたんに国民を裏切るようなことはしません。
お:いや、民主党もやろうと思っていたのに政権についたらたらやれなかった。共産党も一緒になるのではないか?甘いことばっかり言ってもできないのではないか?
山:なるほど。民主党を見ていてそうお感じなのですね。けど、民主党がどのくらい“やりたい”と思っていたかクエスチョンマークです。「普天間基地の県外移設は、私が言ったことで、党の公約ではなかった」といまごろ代表が言うんですから。
お:すると、あんたが言ったことは全部党の公約か?
山:そうです。すべて党として練り上げた政策であり公約です。
お:ほう。
山:それと、野党だから気楽なことを言えるというのは違います。野党であっても政治を動かす仕事をしています。私の体験で言うと阪神・淡路大震災の被災者支援がそうでした。自宅が全壊して自力ではどうにもならない人たちに個人補償するべきだと国会で当時の村山首相に求めました。
けど「私有財産制の国では個人の財産は自己責任が原則だ」と冷たい答えしか返ってこなかった。私は「アメリカではロサンゼルス大地震のときに政府が1万ドルの小切手を配ったではないか。アメリカは私有財産制の国ではないのか」と迫ったけど動きませんでした。そこで、政府がやらないなら、立法府たる国会に身をおく議員が自分たちで法律をつくろうと、作家の小田実さんや被災者と一緒に法案をつくり、議員立法で提案しました。
すると、世論の高まりに押された自民党が「全壊世帯に100万円」というより低いレベルの法案を出してきた。それが成立しましたが、その後、能登半島沖地震などの被災者の運動で「全壊世帯に最高300万円」出すように改善されました。
野党であっても、国民とスクラム組んで現実政治を動かす。それが日本共産党の立場です。その党が政権についたとたん手のひらを返すわけがありません。
お:けど、議席が少ないではないか。
山:こんどの選挙で増やします。
お:ほう、増やすつもりか?けど、これまで伸びてないが。
山:これまで“2大政党のどっちを選ぶか”という大キャンペーンがやられました。でも、いまや2大政党のどちらもダメだと国民の認識がすすんでいます。必ず議席を増やし、増えたらまた共産党への注目が高まる。そうやって政治を変える力を増やしたいと思っています。よろしく!
おじさんは、笑いながらうんうんとうなずいてくれました。
演説会終了後、地区委員長の新井田さんに「面白かったですね」と声をかけると、「山下さんの演説の途中で、“ええこと言うができるのか”とのささやきが聞こえてきたので、急きょ質問を出してもらうことにしました。あの人は、去年の総選挙で、民主党を一所懸命応援した人です。それが裏切られた。ならば共産党の話を聞いてやろうと来てくれた人です。この地域はそういう人が多い。最前列に座っていた人たちもそういう人です」とのことでした。
なるほど〜。それでああいう質問が出るんですね。これまでのわが党に対する疑問とは違う、新しいタイプの質問です。しかし、そういう方たちがよくぞ私たちの演説会に来てくれました。お誘いの対象をうんと広げてくれたおかげでしょう。
「過渡的な情勢」のもとでの国民の認識の発展を、絵に描いたように実感できたやりとりでした。これは本当に面白い情勢です!!!
きょうも大阪ご出身の方々との出会いがありました。羽咋市では、堺の自交総連でがんばっておられたご夫妻が「久しぶりやなあ〜」と声をかけてくれました。かほく市では、大阪市労組でがんばっておられた高木さん(写真)が控え室を訪ねてくれました。
2人の子どもさんがこちらで所帯を持ったので引っ越してこられたそうです。日本海に沈む美しい夕日を眺めながらのんびり余生を過ごそうと考えていたとのことですが、いま、こちらで党の居住支部長をされているとのことでした。
差別の激しい職場で不屈にたたかってきた同志が、退職後、新たな土地でも党の重要な任務を担ってくださっている姿にとても感激しました。
夕方、大阪での青年運動時代からの旧友と金沢で食事をして帰阪。