2010年04月08日
写真は、特急あずさの車窓から見た山梨県の風景です。桃の花がきれいでした。
ところで、「児童養護施設」ってご存知でしょうか?家庭内虐待などの理由から、親子分離して保護する必要のある子どもたちが入所し、発達を保障される施設です。
じつは「地域主権」の名の下に、これまで国が決めていた児童養護施設の「人員配置基準」「居室面積基準」「人権に直結する運営基準」などが地方に条例委任されようとしています。地方の財政事情によっては基準が引き下げられる心配があります。子どもたちの発達を保障すべき、国の責任の放棄といわねばなりません。
そこできょう、甲府市にある社会福祉法人山梨立正光生園の児童養護施設を訪ね、加賀美尤祥理事長、山田勝美施設長からお話をうかがいました。
加賀美理事長は、日本社会事業大学や山梨県立大学で教鞭もとられている方で、戦災孤児の収容保護からはじまった日本の児童養護施設の歴史、90年代半ば以降、児童相談所への虐待相談が増加し、施設の満杯状態が都市部から地方へと拡大していることなどをていねいに説明してくださいました。
「虐待を受けた子どもたちは、夜暗くなると、恐怖感に襲われて夜泣きしたり、夢遊状態になったり、トイレにもいけなくなったりします。職員のところに来て『起きて、起きて』という子もいます。子ども間の暴力に走る場合もあります。子ども6人に職員1人という職員の配置基準を下げることになったら、子ども間暴力や施設から子どもへの暴力が増える。そうなればもう、子どもたちを集団で世話するのはやめた方がいい」との言葉にはズシリと重みがあります。
一方、「今年も6人、この施設から高校を卒業し、社会へと出て行った子どもがいます。1人は看護師になりたいと看護学校に進学しました。あとの5人は就職を決めることができました。いまの高校生の就職難の時代にです。ほとんど子どもだけで、自分で選択権を持って、『ぼくはこれになりたい』と就職先を決めました」と語るときの理事長の表情は本当に嬉しそうでした。
そして「必ず、この子達は自立してタックスペイヤーになれる。社会の担い手になれる」と語る眼は確信と決意に満ちていました。また、国の不十分な制度のなかで、こんな“子育ち”ができるのは、「住み込み制度」というきつい労働条件のもとで職員ががんばってくれているから、と声を詰まらせる場面も。
さらに、子どもの”育ち”は、生理的欲求、すなわち、食べること、寝ること、排泄することを充足させるプロセスのなかで、人と人との関係性をつくることにある。「調理の外注化」でその機会を奪うなんてとんでもない、とのお話も説得力がありました。
実践で裏打ちされた理事長の言葉は、どれも真理であり、私たちの社会が子どもたちにどう向き合い、何を提供すべきかを教えてくれるものばかりでした。
欧米先進国が、社会的養護の養育システムを「個別化・小規模化」へと急速に変革していったのとは裏腹に、日本の社会的養護の施設は現在もなお70%以上が大舎制(40人〜250人規模)だそうです。子どもたちの発達権保障に対する国の責任を、放棄するのではなく、いっそう高め、社会的養護の政策を充実・発展させることこそ政治の役割だと強く感じました。
お話をうかがったあと、施設内を案内していただきました。児童養護施設に併設されている乳児院の小さな子どもたちは、職員のひざの上に抱っこされながら私たちを見ていました。「だれも飛びついてきて抱っこしてといわないでしょ。自分を持てているからです」と理事長。なるほど、しっかり抱っこしてもらい満たされているんですね。
最後に、別の場所に新しくつくった「地域小規模児童養護施設」も案内してもらいました。一般の住宅より少し大きいくらいの一戸建てで、6人の子どもたちが入所しています。玄関のドアを開けると、夕食の準備のいい匂いが漂っていました。ダイニングルームには8人が座れるテーブルが。これはもう「施設」という概念ではなく「家庭」そのものだと感じました。
テーブルで紅茶をいただいていると、元気な男の子が「ただいま」と学校から帰ってきました。今年小学校に入学したばかりのその子は、「お客さん?きょう泊っていくの?」とおしゃべりしながら、冷蔵庫からお茶を取り出しぐいっと一気飲み。私たちの紅茶を見て「僕も紅茶ほしい」と紅茶を作ってもらい、冷蔵庫からこんどは牛乳を取り出して「ミルクティーにする」と得意げにカップに注いでいました。
どんな環境、境遇にあろうとも、すべての子どもたちの発達を責任を持って保障する社会をつくるのは、私たち大人の手にかかっています。
(写真は、児童養護施設のある遠光寺境内の枝垂桜です)