2010年01月22日
感動しました!先ほど終わった衆院予算委員会での赤嶺政賢議員の質問です。傍聴していて途中から熱いものがこみ上げてきました。米軍基地に苦しみ続けてきた沖縄の歴史と県民の思いをつめこみ、鳩山首相に身体ごとぶつかっていくようなド迫力の論戦でした。(写真は、質問直後の赤嶺さん)
「沖縄の米軍基地は、第2次大戦中、上陸した米軍が住民を追い出して奪った土地を、占領時代に銃剣とブルドーザーで拡張してつくられものだ。私が生まれた土地にも、”給水タンクをつくってやる”と住民をだまして米軍のガソリンタンクがつくられ、その後、住民の反対を銃剣で脅しながら施設が拡張された。
米軍による直接統治下で、5歳の女の子が米兵に暴行・殺害され、ゴミ捨て場に捨てられる事件があった。米軍機が小学校に突っ込み、パイロットは脱出したが生徒ら17人が死んだ事故もあった。
1972年、本土復帰する際、”沖縄の米軍基地は縮小される”と当時の日本政府は言ったがそうならなかった。1995年に少女暴行事件が起こったとき、沖縄県民は”あぁ、またか”と思った。2004年に沖縄国際大学に米軍大型ヘリが墜落・炎上したときもそう思った。
昨年の総選挙で政権が代わり、県民は自公政権ではできなかった米軍基地の縮小・撤去がいよいよできると期待した。鳩山首相、この県民の思いに応えるべきではないか」
学生時代、東京と沖縄を行き来する際に使った琉球政府発行のパスポートもかざしながら迫る赤嶺さんに、鳩山首相は、「沖縄の歴史、県民の思いを切々と語っていただいた」と答えざるを得ませんでした。ズシリと重い質問でした。
その後、答弁にたった岡田外相が、「沖縄に行って米軍基地を見て、抑止力の重要性を感じた」と発言したときには、赤嶺さんは仁王立ち。「沖縄の基地を見て抑止力の重要性を感じたとは何事か。どうして基地に苦しむ県民の思いを感じないのか」と一喝。委員会室は静まり返りました。
赤嶺さんは、鳩山首相が、野党時代に普天間基地の「代替施設なき返還」を主張していたことをとりあげ、「あの時と何が変わったのか?国際情勢が変わったのか?」と追及。
首相は「その思いもあったが、アメリカとの交渉を考えたときそれは不可能」と答弁。前政権同様、アメリカにはからきし弱い現政権の限界が浮き彫りとなりました。
沖縄戦の悲劇を招いた戦争に命がけで反対した党、本土復帰闘争の先頭に立った沖縄人民党の流れをくむ党、そして日米安保条約廃棄・米軍基地撤去の旗を堂々と掲げる党――日本共産党の真骨頂を見るような論戦に胸が熱くなりました。
TVで見逃した方はインターネットでぜひ。
普天間基地無条件撤去 米と交渉を 赤嶺議員の質問(10.1.22)