2009年12月05日
「吉岡吉典さんをしのぶ会」に出席しました。3月1日、韓国ソウルでの「歴史認識の共有と平和のためのシンポジウムと文化交流会」で講演された直後に急逝された吉岡さん。参議院の先輩で私も大変お世話になりました。「キッテンさん」との思い出を語り合おうと、雨の中、大勢の人が集まりました。
外務事務次官、アメリカ大使を務め、現在、国際海洋法裁判所判事の柳井俊二氏は、「立場は違うが、軸足のぶれない吉岡先生」とあいさつしてくださいました。
元参議院議員で、小沢一郎氏の知恵袋とも言われた平野貞夫氏は、「吉岡先生は人生で3番目の恩師」と親交の深さを語ってくださいました。
政治的立場を異にする方々からの心のこもった言葉に、吉岡さんの確固とした立場と人間としての幅の広さが示されているように思いました。
吉岡さんとの思い出は数々ありますが、私にとってもっとも強烈だったのは、1995年10月17日、参院予算委員会での吉岡さんの質問を、吉岡さんのすぐ後ろの議員傍聴席で聞いたことです。
村山富市首相と河野洋平外相を相手に、「韓国併合条約」(1910年)が、「対等な立場、自由な意思」で結ばれた条約だという、それまで日本政府が30年間言い続けてきた事実に反する見解を、事実にそってあらためるようもとめる質問でした。
「韓国併合条約」の5年前、1905年に「韓国保護条約」が結ばれました。伊藤博文が韓国の閣議に乗り込んで、「ぐずぐずするやつがいたら、だだをこねるやつがいたら殺してしまえ」と大声で言うような状況下でこの条約の調印を迫ったことを関係者の文書で明らかにした吉岡さん。その伊藤博文の報告書には、伊藤が韓国皇帝を脅迫したことが記述されています。
「現場を見ているわけではありませんから。古い文献ですから信憑性も確認しなければならない」と逃げる河野外相に、吉岡さんは「大変な答弁だ。天皇の命令によって韓国へ派遣されたその報告書だ。その信憑性だとすると、天皇に伊藤博文はうそをついたというのか」と詰め寄りました。思わず手を振って弁解する河野外相。いまでもあの場面は鮮明に頭に浮かびます。
結局、村山首相は、「当時の状況から考えてみて、対等平等の立場で結ばれた条約とは私は考えておりません」と答弁しました。政府の立場は公式にあらためられたのです。
植民地支配に反対した日本共産党の国会議員ならではの、歴史の事実をふまえ気迫に満ちたすごい質問でした。初当選直後の私は、こんな先輩議員をもつことをどれほど誇らしく思ったことか。
吉岡さんはまた、私たち後輩の面倒見もすごくいい人でした。私が初めて予算委員会の質問に立つこととなり、消費税問題を大阪で調査する際、吉岡さんは税制に詳しい自分の秘書(合田寛さん)を同行させてくれました。本当にありがたかった。
後輩議員が代表質問や予算委員会の大舞台に立ったあと、必ず、「いやあ、ご苦労さんでした。よかったよ〜」と、自ら築地で買い付け、包丁でさばいてくれた新鮮な魚と一升瓶をぶら下げて激励してくれました。あったかかったなあ。
心からの感謝とともに、ものごとを原点からたどる探究心に学んで活動していくことを誓いたいと思います。キッテンさん、ありがとうございました。